オタク徒然

オタク徒然

たぶん忘れてたのは 思い出じゃなくて 鍵の在り処だった

私といじめ

私はいじめられたことは無い。

あるのは「親友がいじめられているのを見て見ぬふりをした」ことだけだ。

そう、いじめを見て見ぬふりをした、のだ。

 

それは小学生の頃のことだ。

親友がいじめに遭った。主犯は親がPTAを務める無敵の女の子だった。

最初は軽いものだったので私も「やめろよw」と軽く止めることができたが、段々いじめはエスカレートしていき、いつの間にか止めに入れないほどそれは深刻なものになっていた。

当時の私にはいじめを止める勇気も、先生に言う勇気も、何も無かった。

それをすることで、自分がターゲットになることが心底怖かった。

田舎の、一学年50人しかいない小学校で、居場所を失うのが本当に怖かった。

そんな私にできたのは、休み時間に親友を図書室*1へ連れていき匿うことだけだった。

いじめはその後色々あって担任の知るところとなり終焉を迎えた。

 

私は、親友を休み時間に匿うことしかできなかった自分をずっと悔いている。

そして悔いているけれど、でもそれ以上の正解は未だに見つけられてない。

何度過去に戻れたとしても、私はあのいじめを止めることはできないと思う。

それほど、いじめが怖かった。自分がいじめられるのが怖かった。

 

なんで急にこの話題にしているかと言うと、今日大学の授業で「自分のクラスにいじめられている人がいたら、自分がいじめられる代わりにその人を守ることができるか」という議論をしたのである。

ある学生が言った。「誰かがいじめられているのを見るくらいなら、自分がいじめられた方が良い。私はいじめを止める」と。

めちゃくちゃムカついた。そんなの、綺麗事だ。机上の空論だ。私だって出来るならそうしたかった。

実際にそんな体験もしたことが無いくせに、軽々しく「いじめを止める」なんて、「自分がいじめられた方が良い」なんて、言わないで欲しい。

この授業で私も当てられたので「私は実際にそういうケースを経験し、だからこそ“自分がいじめられた方が良い”というのは綺麗事だと身をもって言える。私はいじめを止めることは出来ない」と答えた。

具体的に休み時間だけ匿ったことも話すと、教授には「俺なら休み時間だけ親友面して、教室では助けてくれない奴とは友達続けたくないな」と言われた。……私もそう思う。

 

小学生の頃も、一連のいじめを知った母親に怒られた。

「いじめを見て見ぬふりするのは、いじめているのと同じことだ」と。

当時の私は、どうして母親が自分にそんなことを言えるのか不思議でたまらなかった。「いじめを止めろ」って言うのは「お前が代わりにいじめられろ」って言うのと同義で。

ママは私がいじめられても良いってこと?としか思えなかった。

どうして大人は「いじめを見て見ぬふりするのは、いじめているのと同じ」なんて軽々しく言えるんだろう。

職場でちょっと浮いてる人とか、絶対いる癖に。そういう人達のことはどうせ助けてないくせに。

今日授業で綺麗事抜かしてた学生もそうだけど、彼女らに悪意が無いことはわかっている。

でも、だからこそ、ムカつく。

知らないんだ。あの恐怖も。この後悔も。

いじめを止めるのにどれだけ勇気がいるかなんて、いじめを間近で体験したことの無い人には絶対わからない。

だから「見て見ぬふりもいじめ」だとか「自分ならいじめを止める」とか簡単に言えるんだ。

私だって、できるなら止めたかった。親友を守りたかった。

でも、自分はそんなに強くなかったんだよ。

親に怒られる間でもなく、それを一番悔いているのは誰でもない私自身だ。

 

結局、私はその一件で「今度からいじめは止めよう」ではなく、「そもそもいじめられないような賢い生き方をしよう」という教訓を得た。

いじめを止めるなんて、今世の私には無理だ。自分(と親友などその周辺)がターゲットになることを未然に防止するくらいしかできない。

いじめの対象になんて選ばれないくらい、圧倒的な存在になりたい。舐められたくない。見下されたくない。負け組になりたくない。資本主義の上流でいたい。

……子供に「いじめを見て見ぬふりをするのもいじめだ」なんて、言わないような大人になりたい。

そんな、何の生産性も無い結論でこの話は終わる。

 

 

最後に。少し救われる後日談を。

そのいじめられていた親友とは今でも仲は続いている。

私が一度「あの時は何も出来なくてごめん」と謝ったら、「むしろ助けてくれてありがとう」と返された。

これは社交辞令的なやつではなく、親友は恐らく休み時間に匿われただけでも救われていたようである。

しかし、例え親友が私のことを責めていなくても、私はあのいじめを止めるべきだったという後悔をやめることはできない。

きっと私はこの先もずっと一生この罪悪感を抱き続ける。

けれど、せめて親友との付き合いがずっと続けば良いなと祈るのであった。

 

 

 

深夜の病み長文、おしまい。

 

【追記】

ツイッターで「なんで社交辞令じゃないってわかるの?」と聞かれたが、その子の態度と小学校卒業して10年近く経っても細く長く交流が続いてるあたりから多分恨まれてないっぽいな…と思う。

その子は地元の公立/私は私立の中学に進んだし、それから私は小学校のあった場所から電車で数時間かかるところに引っ越して、お互い高校も大学も全然違って、疎遠になる要素はたくさんあるけど、まだ仲良くしてるから少なくとも「いじめてた人」「裏切者」としては認識されてなさそう。

これで壮大な復讐計画があったら笑っちゃうな。甘んじて受け入れるしかない。

*1:当時私は図書委員長だったので図書室の小部屋等を自由に利用することができた